Salma
夕焼けに包まれた広場でBBQ大会の最中、ビール瓶を傾けながら、キャミソールを纏ったパレスチナ出身のSalmaと
ーー
乾杯!
パレスチナからドイツに移ってきたんだよね、今年で二十歳になったとこ
大学でコンピュータサイエンスを専攻してるんだ
えっ?Gazaなのか、West Bankのどちらの出かって?
いやいや、言っておくけどパレスチナの国土はこの二つに限らないからね
あの辺り一帯は全部パレスチナなんだよ
はいはい、あんたが言いたいことはわかるよ
それでもどこ出身かって訊かれたら、West Bankと答えるかな
うちの家系はサマリア人でね、
そうそう、聖書で善きサマリア人って紹介されている、あれよ
よく知ってるね
あたしさ、Kamilah(ペンシルベニア出身)と同じ寮に住んでいるんだ
今度一緒に水煙草でも吹かそうよ
Hedayatullah
ドイツ語の授業後の空き教室で、どんよりとした雪景色を見ながら、カブール出身のHedayatullahと
ーー
いやぁ、さっきはラップトップ貸してくれてありがとうね
お陰でオンライン試験を受けることができたよ
高いからなぁ、なかなか買えなくてね
前にも言ったかもだけど、隣町から電車で20分かけて、この大学の初等ドイツ語講座に通ってるんだ
この後は、2時間だけamazonの配送センターでバイトなんだよね、まぁひたすらスキャンするだけよ
昨日なんか、午前2時から10時までのシフトだったわ
まぁ深夜だから2割5分増で、時給13ユーロが16ユーロになるって感じ
でもそこから所得税とかで30%天引かれるんだけどね、シャイセッ!
日本ってどう、住みやすいと聞くけど
日本で知っていることと言えば、1945年にアメリカに原爆落とされたことくらいかな
隣町に住んでいるのは、ドイツ政府から宛てがわれた住宅があるからなんだよね
不便だから、ホントは大学のあるこの街に引っ越したいんだよな
俺は半年くらい前にドイツに着いたよ、タリバン政権がほとほと嫌になってね、国を出たんだ
奴らは女子供を大事にしないんだ、もう爆破なんていちいちニュースにならないよ
俺が生まれて21年、この時代は人もいっぱい殺された
奴らはアメリカからお金を貰ってパキスタンからやってきて、まぁアフガン人も交じってるけど、やりたい放題、金のためなら何でもするんだよ
高校出てからは、親父と中古車販売業をやってたんだ
でも昨年に、親父、お袋、兄ちゃん家族、奥さんと小さな子供二人で、先ずはカンダハル経由でバスを乗り継いで、南西部に向かったんだ
ブローカーには大人一人に対して1000ユーロも払ったんだぜ
最後の町、なんて言ったっけな、からはくたびれたピックアップトラックで、岩石だらけのところを走ったんだよ、荷台はめっちゃ揺れたな
そうそう、衛星写真だとこの辺、道なんてあるわけないよ
アフガニスタンのパスポートは持ってたけど、ビザがないからね
行く先々で、イランの警察に車は止められたけど、俺らは荷物の中に隠れてなんとかやり過ごしたんだ
イラン‐トルコ国境の検問所で、何故か俺だけ通過が認められたんだよ
家族とはそれっきり、連絡もつかないし、今どこにいるかもわからない
ドイツで会えるって信じてるけどね
俺はそのあと、イスタンブール、ギリシャからバルカン半島を北上して、時には長距離を歩いたりして、ウィーンに着いたときはホッとしたね
幸運にも俺は早い方で、カブールを出てから一か月でドイツのキャンプに着いたんだ
遅い人は半年から1年くらいかかるんだよ
当局に申請して、認められて、それで今に至る、と
二十歳になる彼女もいたんだけどね、相手方の両親が他の男と強制結婚させちゃった
まだ彼女のことが忘れらないんだよね、こんなこと他人に言うのは初めてだよ
この間のドイツ語の授業で、自分たちの国の人が普段何をしているか、写真を見せながらみんなの前で話した回があったよね、
normalerweiseとか、Leuteとか使ったじゃん
あん時、みんなは気づかなかったかもしれないけど、俺は泣いちゃったよ
今もウクライナで起こっていることを鑑みるとね、強大な力によって、普通の市民が殺されていると思うと、本当に辛い、彼らのことがわかるからね
ーー
気が付くと、教室を出て、二人並んでバス停に向かって歩いていた
粉雪が舞っている
彼はポケットから徐にマルボロを取り出し、お前も吸うだろ、と言わんばかりの表情で、私に一本手渡し、安いライターで火を点けて呉れる
こんな辛い経験してるんだ、煙草くらいの楽しみは許されるでしょ、と呟く
Kamilah
賑やかな学食でランチを食べた後に、ヨーグルトやカップケーキをつまみながら、ペンシルベニア出身のKamilahらと
ーー
うん、最近はドイツ製戦車をウクライナに送るかどうか、ホットな話題だね
ふうん、ドイツも過去の侵攻の歴史を抱えてるから、武器の輸出には否定的ということね
ドイツも戦争に巻き込まれたら、私たちはスイスでもに避難するかねぇ
スイスは昔っから、どこでも山に穴を掘って作ったシェルターがあるって言うし、今はホテルに転用されてるトコもあるから、快適だったりして
え、そうなの、スイスは昔から傭兵を使ってたんだ、それで周辺諸国といろいろ取引してうまく中立を保ってきたんだね、まぁそんな訳でバンクが強いのか
いざとなったらシェルターねぇ
そういえば日本ではみんな地震の時の対応を小さいころから学ぶんでしょ、今地震が起こったらどうする
へぇ、机の下に隠れるんだ
アメリカでは、shooterが入ってきたときにどうするかの対応を学んだなぁ
私がいたような小さな町の近所でも、校内での銃撃事件は起きていたしね
えっ、先週末の春節でも、ロスで銃撃事件があったんだ、知らなかった、ってかありふれたニュースすぎて、、
まぁ、教室の鍵を閉めて、皆で物陰に隠れてじっとする、ってことね
Lucia
中世には砦が聳えていたという、郊外の丘のてっぺんを目指し、牧草地の捲き道を歩きながら、ブレーメン出身のLuciaと
ーー
週末は彼氏に会うために、片道8時間の列車旅だった
飛行機?は使わないよ
近距離、特に国内移動で飛行機は使いたくないんだよね
フットプリントが大きいでしょ
電車の中はWi-Fiも使えるし、気になる動画を見てれば8時間もあっという間よ
まあ大陸間の移動にわざわざヨットで行くほどの勇気はないけどね、
あ、このセーター?いいでしょ、セコハンで買ったんだ
新品を買うのは嫌いなんだよね、だいたいお下がり
通学に使う自転車も実家から持ってきてさ
既に持ってるのに、また買いなおすことは
したくなくてね、遠いけど、電車で運んできたんだわ
ただ、このお弁当箱はオーガニックショップで新品のを買ったんだ
ステンレス製でプラスチック不使用
蓋の裏にはシリコンがついてるから、多少の汁物もいけるかもね、パスタとか
Pola
旧市街のクリスマスマーケットでグリューワイン飲みながら、ロストフナドヌ出身のPolaと
ーー
今年の2月の少し前から、毎晩夜になると遠くでドォーン、ゴォーンという、聞き慣れない地鳴りの様な音が響いていてね
その後ロシアが一方的に侵攻して、ウクライナが自国の領土を守るために応戦してるのはご存知の通り
ウクライナの自衛戦には正義があるわね
何故このタイミングで進軍したかわからない
ただ、クリミア事変然り、二国間は複雑なのよ
国境の両側、どちらでもない、そしてどちらでもあるような緩衝地帯に住んでる人もいる (クリミア併合と同時期に独立宣言した親ロシア派地域(新ロシア)を指すと思われる)
私の祖母もキエフに住んでいて、その妹はドンバスに住んでる
ただ、ウクライナとロシアに分断されて、二人はそれぞれのプロパガンダを鵜呑みにするもんだから、家族同士でいがみ合うようになってしまった、これが本当に悲しいこと
私も併合前にクリミアの都、セバストポリに行ったことがある
街中どこもかしこもロシア語が話されていて、看板もロシア語、正直、ロシアの地方に居るような感覚だった(もっとも、同調圧力でロシア語のみを話すようになったウクライナ人もいよう)
NATOがクリミアに軍事基地を建設しようとしたから、ロシアが治めたってことになってるけど、ほんとのことはわからない
9月に動員令が出されてから、高校の情報科で講師見習いをしてた弟はジョージアに出国したの
今回、ドイツに来るにあたって、ロシア人というだけで偏見や差別に遭うかと怯えていたけど、案外何もなかった
まあドイツの変り身にも驚くわよね、先の二回の大戦ではロシアに侵攻したくせに、今は正義の味方って感じで振る舞っている
侵攻した、侵攻された者同士、なんだかロシア人とドイツ人には分かりあえるものがある気がする
これらのことは、皆の前で声を大きくして話すことはできないけど、面と向かって一人に対してなら、話せるのよ
まあといっても、私も偏った情報に流されてるかもしれないし、ロシア人と言っても一人ひとり異なる意見や感情を抱いてるから、あまりアテにしないでよ
そうそう、学期が始まる前にヨルダン人や韓国人の留学生とも話したんだけどね、朝鮮半島、ベトナム、アフガン等ではアメリカが糸を引いてハチャメチャになったんだ、ウクライナでもアメリカがなんにもしてなかった訳では無いわよね、アメリカにも非がある場合があるってことに、多くの国から来た学生においてコンセンサスー確かに彼女はこう言ったーが取れてることに本当に驚いたわ
アメリカ嫌いはロシアだけじゃなかったんだっ、てね
Liren
日没後、食堂で夕飯を食べながら、雲南省出身のLirenと
ーー
どこでもベジタリアン用のメニューがあるのには驚くよね
試しに頼んでみたけど、なんだろ、これ
豆、卵、小麦を混ぜて焼いた分厚いパンケーキのような
うん、ホウレンソウが入ってるね、ソースもかかってて、まぁまぁイケる
そういえば、こないだ、あ、誰だっけ、日本の首相、あ、アベだ、の国葬があったんでしょ
あれについてどう思う、賛成、反対?
うーん、やっぱそうよね、第一党が宗教の影響けてて、しかもそれが朝鮮半島由来なんて、そんなことが明るみに出ちゃうとね
なんだか犯人も英雄視されてるっていうじゃない
そうそう、国葬の費用が女王のそれを上回ったっていうのもニュースでやってた、ウケるよね
まぁ複数の政党があるだけマシじゃない
日本ではみんな、選挙って行くもんなの?
ウチでは選挙はするけど、裏で全部決まってるんだから、行っても行かなくても一緒なのよ
例の四通橋の件、あれね
知ってるよ、国内ではヒットしないけど、まぁこっちでなら見れるよね
画像も回ってきた。ほらこれでしょ
慌てて、つい保存しちゃったよ、彼の勇気ある行動を思うとね、保存しておかなきゃって思ってね
捕まっちゃったらしけど、このタイミングでこれだけのことやるとね
本当に残念だけど、望み薄よね
Scrap and Build
この辺りの土地はゴミでできている
コンクリート片、プラスチック、ビニール、金属、ワイヤー、およそ自然分解されることのない成分で構成されているこの土地は、後の世代が掘り返したときに、この地層が人新世(統)かと容易に見分けがつくに違いない
過去の建物は破壊され、同じ土地に新しい建物が建設される
スクラップ・アンド・ビルド
過去そうであったように、文明は上へ上へと更新される
Cubao Expo
マニラは街が若い
毎年来るたびに新しいマンションが建ち、都市高速道路が伸びており、目下は地下鉄やLRT新路線の工事現場から、昼夜を問わず鎚の音が響いてくる
日毎に、海岸には矢板が打ち込まれて土砂が充填され、鉄骨で組まれた脚柱や橋梁にはコンクリートが充填されていく
今年の高速道路Skywayの第3区の竣工により、マニラ市街を南北に高速道路が貫くことになった。それまでマニラの南端と北端が終点だったSLEXとNLEXを接続したことにより、市内の渋滞も緩和され、南北移動が大幅に短縮された
しかもこの区画の建設はODAではなく、国内企業が主導した点も特筆すべきだろう
ただ、開業したてのホテルの客室から下を見ると、ホテルの朝食会場の庭の垣根のすぐ向こう側は、いわゆるSquatterの生活が繰り広げられていることがわかる
狭く密集する木材とトタン屋根で構成された街区には、バスケットボールコートが設けられ、夜遅くまで子供がボールをパスして遊んでいる
他方でショッピングモールは22時まで電飾が煌々と営業しており、今では停電することもなくなった
進行する都市化と、それに抗うかのように、線路や小川沿い、ビルの狭間で生きている人々もいる
夜、ショッピングモールから漏れた光の中でおチンチン丸出しで小さな白い花を売る5歳児を見るや、また常に揺れ続ける歩道橋の上でマスクを売る少女を見るにつけ、つい50ペソ札を渡してしまう
私にとっての50ペソと、今の彼ら彼女にとっての50ペソとでは、どちらの方が価値があるだろう
休日にマニラ郊外のBalagbag山に登って(航空写真で見つけた適当な尾根を登っていたら、峠の小屋の警察官に怒られた話は別で話そう)、一息ついていたところ、何台ものランドクルーザーやランドローバーがやってきて、なかからイケイケの(露出度高めな服装をした)若者男女が下りてきた
何やら見ていると、給仕と思われる人たちが炭を熾してバーベキューの準備をして、穴を掘ってテントで囲っては即席便所まで用意している
車で山頂に乗り付け、マニラ市街を一望しながら冷えたビールを楽しむ若者もいれば、コロナによるマスク着用義務期間中に未着用の通行人を見つけては警察に突き出すと脅して、罰金より小さい金を揺する若者もいる
因みにこの国の平均年齢は23歳ほどである
大都市ともなれば文化の度合いも高く、Antique店も存続できるようだ
飲み屋、バーに加えて、古物商が三件ほど軒を連ねる一角、Cubao Expoを友人に紹介してもらう
MRT3号線のCubao駅から東方に、複数のショッピングモールを通り抜け、General Romulo Avenueを渡ったところにその一角はある
私はその昔、街灯に使われていたという国産の、金属製の電球の傘を購入する
同じGeneral Romulo Avenueを挟んだ向かいにも古書を中心とした骨董店がある
また、付近のAli Mallの二階にも”REMNANTS”や、”Guiller's”という名の古物商やレコード屋が立ち並ぶ区画がある
REMNANTSでは、Essoの全国道路地図を購入する
古物商に出入りするのは、若い顔ぶれでなく、古い人ばかりだ
マニラは人が若い
Tehran
褶曲山脈は教科書で習った通りであった
飛行機はペルシア湾岸からシーラーズの辺りまで横たわるザグロス山脈を横断していく
これだから窓側に座らずにはいられない
寝不足であったが遂に一睡もせず、眼下に広がる乾燥地帯を読み解きながらテヘランに降り立つ
空港から市内までのバンの中で、英語の拙い運転手から基礎的な情報収集をする
最近の天気から、沿道の作物のこと、車のナンバープレートのゾロ目はテヘラン登録だがそれ以外は田舎もんだということ、コロナの騒ぎはここ半年でだいぶ落ち着いたことまで、喋りたいらしい
市内は朝晩の渋滞がひどいらしく、また盆地様で空気も滞留しやすいので大気汚染が問題となっているようだ
初めて訪れた街では、先ずは足で歩いて回りたい
願わくば高台から街を見下ろしたいと思うものだ
普段ならカメラを提げてスナップでも撮るのだが、この地では警察やら軍やらが目を光らせているので気を付けたい
市場や露天商を見て回るときには、一応の買い物リストを頭で考えておく
地域色の表れるマッチや、煙草や、両刃剃刀の刃なんかである
あたかも、欲しい物があるためにこの辺りをうろうろしてるんです、という体を繕っている
その方が、場違いの観光客という身から、さらに一歩、街に溶け込めそうな気もするのだ
花屋の主人から話しかけられる バイクに跨っている写真を撮ってくれと頼まれる
フィルムだから直ぐには渡せないのだよと伝えると、残念がっている
また進むと、葬式や結婚式用の花輪なんかを作っている別の花屋に話しかけられる
アフガン出身の彼と少し話し込むと、お前は友達だとか何とか言って、煙草を勧められ、一服する
絨毯や土産物店の主人も、コロナ前は日本人もようけ来たもんだとか何とか、なにかと話しかけてくる
彼らはとても気さくで、すこし話すだけでチャイやら煙草やらピラフまで出してくる
外を歩くのも良いが、鄙びたショッピングモールもなかなか面白い
両替商や、テーラーや土産物店や、古物商が立ち並ぶそれだ
水煙草屋を訪れると、コロナ感染対策なのか、チューブがすべてプラスチック製で、客の度に取り換える仕様になっていた
知らない国で床屋を訪れるのも一興だ
髭を剃ってもらおうと、閉店間際のバーバーに入ると、常連客が屯していた
そこの主人は90年代に前橋で過ごしていたらしく、カタコトの日本語を話している
当時、日本にお世話になったからと、髭剃り料金をマけてくれた
今度は散髪に来いよ、と送り出してくれる
宗教警察の指導もあり、女性はヒジャブを被っている
が、最近の若者は反抗する向きもあり、緩くかぶる布間から、髪の毛が垂れている子もいる
見てはいけないものを見てしまっているようで、妙な昂ぶりを覚える
Rock'n rollやhard rockなカフェも点在していて、オシャレなカップルが出入りしている
今度は電気街を行くと、中国製の他は見知らぬメーカロゴの製品ばかりで驚く
トランプの核合意離脱以降、経済制裁を強化され、日本、韓国含めて西側の製品は入ってこない
これに乗じて自国産業を強化する動きもあるらしく、8000万人の人口に加え、中央アジアやコーカサス等の後背地を抱えるイランでは、産業が十分に成り立つようだ
いわゆる西側に頼らない経済圏がここにあることーまぁ入手しようと思えばトルコ経由で酒でも何でも入ってくるらしいがー、にイランの地域の盟主としての振る舞いや、逞しさを垣間見た気がした
ノールーズ前ということもあり、朝晩は寒さが残る時合であった
そのため、ケバブスタンドやカフェのオープンテラス前では、ガスを平気でぼうぼうと焚いて暖を取っている ヒーターよりもエネルギー効率は良さそうだ
地球温暖化の緩和策に逆行する形とはいえ、化石燃料も安く、産油国としての強みも目の当たりにした
そんな中、2月24日、宿のテレビの国営英語放送(Press.TV)から、ロシアによるウクライナ侵攻の報に触れた
翌朝、露店の前で拡げられた新聞では、戦車が前進する写真が一面を飾っている
英字新聞のTehran Timesでは、イランは中立を取るだろうことが記載されている
暴力には反対するが、必ずしもロシアに反対、という立場でもないようだ
このあと、イラン製の軍事ドローンがロシアに輸出され、ウクライナ侵攻に用いられていることが、西側メディアでは盛んに喧伝されることとなる
ウィーンで進められていた核合意復帰に向けた前向きな検討も、白紙に戻るようだ
秋には、ヒジャブ着用を巡り、若年層を中心とした反政府デモも勃発する
これから、西側諸国と反欧米的なロシアやイランによる独裁体制との対決、という風に描かれていくわけであるが、市民レベルで見ると、状況は少し違うようだ
私が話した人々は、アメリカや西側文化に抵抗がなく、締め付けの強い政府に対して反感を抱いていることが多かった
今回のテヘランで過ごした3週間は、今後のイランの国際関係上の振る舞いを意識させるに十分なほどの同国の存在感を私に刻み付けてくれた
Narita
その日、私には番号881が振られた
ーー
日々、数千人が到着する。成田空港
ここでは、大量の日本人の若者や外国人が係員、誘導員として、パソナに雇われている
アジア系の移民は、日本語を勉強する傍ら、母国から来日した同胞と話すことができるので理に適っているかもしれない
一方、外国語を学ぶ日本人にとっても、その勉強したての言語を日本で活用する機会でもある。私がドーハから乗った便には、ブラジルからの乗継便でもあったらしく、複数のブラジル人が搭乗していた
いわゆる監視アプリのインストールをする場では、「ポルトガル語を話せる人ー、次はバングラー」という掛け声が飛び交い、移民労働者に交じって日本の若者も最前線で働くのである
流石はパソナ、と言わざるを得ない。しっかりと国の事業には絡んでくる。同じベストを着させられ、首から「パソナ」のカードをぶら下げた数多の若者がここNARITAで、それこそ朝から晩まで汗を流しているのである
帰国時の抗体検査結果が出ていない区画では、青いビニール製の防護服に身を纏った彼らの姿がご覧いただけよう
一方、どんなものにも例外はあるもので、米軍人と思しき体躯の良い彼らは、そそくさと列の横を通過してあっさりと先に行ってしまった
彼らの健康カードやその付属紙には、SOFA欄にチェックが入っていることが見て取れる
横田ならまだしも、まったくだ
公用旅券でイラクから帰ってきた人でさえ、私の隣で列を成しているというに
ここで入国時の流れをおさらいしよう
降機後、全員が整列させられ、係員に連れられて成田空港の、遠いターミナルビルまで歩かされる。その先にはパイプ椅子が一定の間隔を設けて並べられており、順番に座るよう促される。既に別便で到着した、正に老若男女、黒人、白人、アラブ人達が座っている。ここで配布される紙に、誓約書などが含まれており、各々の個人情報を書き込んでいく。ペンが渡されることはなく、各人が持ち込んだペンを使いまわしたり、文章の意味が分からない箇所を教えあったりする光景を目にすることができる
2時間ほど待つと、受付し、ここで番号が付される。私は881番だ
受付の直後に唾液による抗体検査が行われる。881が印刷されたプラ製の試験管が手渡され、目盛まで唾液をためるように言われ、個別ブースに案内される
唾液が出やすいように、梅干しやレモンの写真がラミネートされて目の前の壁に貼ってあるのが微笑ましい
その先では、水色の防護服に身を纏った彼らが待ち受ける
政府謹製の監視アプリを確実にインストールする様に、懇切丁寧に教えてくれるのだ
スマホを持っていない、スマホが古いからインストールできない、なんてことがあっても心配御無用、そのために貸出サービスまで用意されている。1台15,000円を支払ってレンタルする必要がある
位置情報が発信されているか、登録された携帯電話番号とメールアドレスが本人のものであるか、確認される
一つ申し付けると、スマホレンタル費用が返金されることはない
更に階段を登った先では、厚生労働省のサイトにアクセスし、再度個人情報を入力する
入力後に画面に表示されるQRコードをスクショし、先に進む
また新たなブースが現れ、先ほどのQRコードをスキャナーにかざし、本人確認が行われる
便名と座席名まで確実に記録される。それが終わると再び別のパイプ椅子コーナーへと通される
指定されたパイプ椅子に腰を掛ける
抗体検査を終えるまで、飲食禁止となっているため、ここに来ると喉が渇き、お腹も空いてくる
19時に降機したがもう21時半である
5分ほどの間隔で、アナウンスが入る。若い女性の声で、肉声には違いないが、機械的に先程の管理番号が読み上げられる
一回につき10名ほどの番号が呼ばれ、すなわち陰性であった人はその場で次に進む
私が座った直後には710番の人が呼ばれていた。あと、150人も待たねばならぬのか
ここには自販機があり、トイレもあるのでほっと一息つくことができる
もちろん、日本円が財布に入っていれば、の話だが
喫煙者はまとめて、係員の誘導に従って喫煙ブースまで連れられて行く
ここで厄介なのが、番号の読み上げる順番が、必ずしも数字の通りではないということだ
飛び飛びで呼ばれたり、数字が戻ったりするのでおちおちしていられない
22時を過ぎると、「水と食糧を配給しまーす」という掛け声とともに、指定のベストを着た若者がおにぎり、パン、水を配っていく
「おにぎり、2個食べていいですか、」と質問した人は断られていた
そのおにぎりとパンの賞味期限は、正に今日なのである
もちろん、無償であるから文句は言えないが、成田市内のコンビニやスーパーの売れ残りが回されているのか、と想像するにやりきれなくなる
23時を過ぎて、ようやく番号が呼ばれた
赤紙、と呼ばれる陰性証明書が手渡される
赤紙を手に、メインのターミナルまで歩くと、ようやく通常通りの入国審査となる
入国審査は自動受付機でさっさと済ませ、預け荷物のターンテーブルまでの階段を下りる
とっくにターンテーブルは停まっているらしく、大型のスーツケースが床に並べられている
その後、通関し、その先は到着ロビーというところまで歩いていく
「お、このまま隔離されずに鉄道駅まで辿り着けるのでは、」と脳裏をよぎったが、そうは問屋が卸さなかった
到着ロビーを出た途端に、日本語が拙いアジアのおばさんに呼び止められる
「番号は?881ネ。。。はーい、左!」
と言うが早いか、到着ロビーの左の方に連れていかれる
ここで「左」組と「右」組に分けられるのだ
左組は、また20人程度にまとめられ、到着ロビーの端っこの椅子で待機させられる
逃げられないように、黒人の男性職員がー胸にSECURITYとあるのだがーこちらを見ている
私は隙をついて、トイレに行ったり自動販売機でジュースを買って飲んだりした
せめてもの小さい反抗だった
これに続いて、他の人もジュースを買ったりなんだりし始める
監視員は気に留めない様子だ
時刻は23時40分
成田ナンバーの観光バスに乗せられる
行先は表示されていない
ここでも881と記載したカードを係員に提示してからバスに乗り込む
行先は?と尋ねると、
「ウーンと、、ニッコーナリタ」と返ってくる
よかった、地方都市行きは免れた。またこれから延々とバスで仙台まで行くセンは消えた、当たりじゃん、と思った
日付が変わるころ、バスが日航成田ホテルの正面ロータリーに滑り込む
ここでは厳重にマスクとフェイスシールドをしたおじさんが乗り込むやいなや、「一人づつ、降りてもらいます」と言い、前の座席に座っている人から声を掛け、「ソーシャルディスタンス」を保ちながらの下車を管理していた
さてさてフロントにはもう私の名前が予約されているのかな、と思ったのが馬鹿だった
正面玄関横の鉄製の扉、ーいかにも裏口、従業員用ーから入館する
ここでもまた番号が振られた椅子に座って、パーテション越しにチェックインする
対応するのはホテルの従業員ではなく、パソナに雇われた若者たちだ
その後、弁当と水が手渡され、一人づつエレベータに乗るように管理される
「ボタンを押さないでください」と言われる
一階の係員が、半身でエレベータの中の行先階ボタンを押し、到着した六階ロビーには、ここにも複数の係員が待ち構えている
ホテルの廊下には俄仕込みのウェブカメラが、三脚に括り付けられ、廊下を見張っている
私はゆっくりと621号室の扉を開けた
ゴゴゴゴゴゴゴゴ
これから三日間の政府指定隔離施設での生活の始まりだ
DAY0
ーー
行先がわからない、これから何が起こるかわからない、という状況の連続である
列になって、待たされ、番号を付され、生体検査され、配給され、番号が呼ばれ、仕分けされ、輸送され、収容される、といった正に例外なく人を管理する仕組みが、飽くまでも任意との名の下に成立していて、且つ国がやっているからしょうがない、という気持ちになってしまうところに恐怖を抱いた
なんだかユダヤ人が収容所に運ばれる映画の中にいるようだ
もちろん私の比ではないが、彼らも、大きな荷物を抱え、悪いようにはされないだろう、と思いながら、管理を被っていたのかもしれない
Amcorp Mall
コロナの影響を受け、SafeTravelの仕組みを用いてマレーシアに入国するには、二週間以上前に旅程を申請せねばならぬ
旅程の中には、移動手段(公共交通機関は禁止)、投宿先、移動時間、会合場所、面会相手の氏名や連絡先を記載してから渡航許可を得る必要がある
空港ではPCR検査して、検査結果が出るまでターミナルで3時間ほど待機させられる
陰性であれば(陽性なら再検査の後、隔離施設へ)入国できるが、すると、政府が指定したアテンダントが待っている
今回は、旅程に沿って行動する必要があるため、彼女はそれを監視する
朝はホテルから、夜にホテルに戻るまで付き添っている。昼食も一緒に取る
どうやら減便したマレー航空のCAが担当しているようだ
一度、地方都市で彼女と屋台飯を食べたとき、「日本はG something rich countriesなんでしょ、マレーシアに対する国際協力をするけど、実際のところどう思ってるの(G20 やG7を指すと思われる。Global Southを見下してるのか、といった質問のようにも聞こえた)」と聞かれた時には意表を突かれた
それはさておき、外国では古物商や古本屋を見て回ると、その土地で使われていた食器や地図やなんかを掘り出すことができ面白い。博物館の蝋人形が身に着けていた装飾具や鞄等が見つかるとつい手にしてしまう
もちろん旅程にはないが、日曜日にAmcorp Mallに足を運ぶ
クアラルンプールの西郊、ペタリンジャヤに、連邦高速2号線に面してAmcorp Mallと呼ばれる鄙びたショッピングモールがあり、そこでは隔週日曜日に骨董市が開かれる
これは2年前、2020年3月だったか、コロナが流行しだして、マレーシアでは日本人が避けられていた(当時は日本での感染者数が東南アジア諸国のそれを上回っており、握手を拒否されたり、約束もすっぽかされた)頃に、Masjid Jamek近くのインド人街にある古くて薄暗いモールの二階のレコード屋で仕入れた情報だ
これをアテにして、のこのこやってくると、地上階と、吹き抜けとなっている地下では、骨董市が開かれている
こういった、前世紀に建てられたであろうショッピングモールは、どの国でも大抵の場合、紫外線防止だろうか、色付きの、そして埃まみれのガラスが張られている。両替商(閉まっていることが多い)や土産物店(マグネットの他、民芸品もある)や生地店(布には地域性が現れる)、文具店(現地語/通貨が記載の新品の領収書束は買ってしまう)、雑貨店(made in Chinaの色とりどりなプラスチック製玩具)が軒を連ねる
骨董市はというと、個人商店がざっと30店舗くらいはあるだろうか。地下には常設の古本屋や家具屋も立ち並んでいる
眉唾ではあるが、マレーの諸王が持っていたとされる、儀式用だろうか、波型の刀剣類、銀食器や擂鉢、またはレコードなんかが出品されている
結局ここではEssoが発行した60年代のマレーシア全土の道路地図、また同年代の中国共産党発行のプロパガンダ満載のマガジン、78年製米国Gillette両刃剃刀を購入
Essoは油売りではあるが、交通量促進のためか、道路地図を発行していたようだ
Antiqueとしての骨董市が成立するのは、Rich Countryの証なのではないか、と、アテンダントの彼女に伝えたくなった
Singapore
当地の研究機関に勤めている友人を訪ねて、6年振りのシンガポール
蒲田で一杯やってから二時間後には搭乗して、起きたら着いているのだから近いものだ
東海岸公園で麦酒を飲みながら丸太に枕して、沖合に夥しく浮かぶタンカー船を眺める
実にゆっくりとした時が流れる
足だけ海に入る、すると足の裏にはベッタリとタールのようなものが纏わり付いていた
ここいらの海水や砂には油がよくよく含まれているのだろう
翌日はアラブ人街で飯でも食べて古本屋を漁るが、目当ての古い地図がなかなか見つからない
そもそもこの島ではアンティーク店、古本屋を探すのは至難であった
国立歴史博物館を再訪して、たっぷり二時間ほど過ごした
シンガポールの歴史の中で日本統治時代は4年という短期間であるが、展示の内容が他の期間よりも多く、そして濃く、如何に”昭南島”がここに暗い影を落としていたかがよくわかる
西洋人向けに学芸員がガイドしていたので盗み聞きをした
英国統治時代、彼らは華僑に阿片を売りつけ、その思考を奪っていたと説く
阿片窟を再現した、薄気味の悪い展示の一角では子供が怖がっているようだ
旧日本軍の山下中将による電撃的マレー半島の奪取では、英軍と戦力の差は大きくなかったと解説した
迎え撃つ英軍の主力は豪州やニュージーランドからかき集められており、彼らにとっては郷里でもなんでもない、国際都市シンガポールを衛る動機に乏しいと、その学芸員は伝えた
一方の旧日本軍は自転車でマレー半島を南下し、英軍の予想しなかった地点からシンガポールに上陸したらしい
欧米人に占領された東アジアの解放をモチベーションとした日本兵の士気が上回っていたと伝えた
確かにその通りだと思う
尋常小学校で、大英帝国のアジアやタスマニアにおける蛮行を教え込まれた前線の兵隊は、開戦当初こそ、正義感すら持って弾を放っていたことだろう
シンガポール人として、英国、日本側に中立な立場でよく解説していると思う
特設展では日、英の統治時代を比較していた
41年以降は食糧や衣料が配給制になり、映画などの娯楽も制限された
皇民化による日本語教育が施され、今でも日本の歌を諳んじる人があることが紹介されている(ビデオで彼らの歌を聴くことができる)
対して英国時代は国際都市として栄華を誇った時であったと言わんばかり、蓄音機が鳴り、アドバルーンが翻り、レースのドレスを着飾ったマネキンが立ち並んでいる
そりゃそうだ
昭南島なんかに改名されたのはそれこそ屈辱的であったろう
年表には"Shonan era"として黒色で塗られている
我々は、南の島、ハワイ、バリ、サイパン、ルソン、台湾、沖縄、小笠原に遊びに行く度、戦争が頭を過らずにはいられない
いつまで反省が必要なのだろう、多分、いつまでも語り継ぐ必要はあるのだろう
今の小学生はまだ、ギリギリ、戦争経験者から直接話を聞くことができている
ただ、その次の世代あたりから、戦争の悲惨さ、日本が犯した過ちについては、非常に薄れた記憶としてでしか、伝えられなくなるだろう
いまでさえ、市民がだんだん好戦的になっているのだから
帰路、見下ろすと、シンガポール海峡に浮かぶタンカーの群が、輸送船や戦艦と重なる
Stateless
初の渡米
ロサンゼルス国際空港で乗り継いで、ゴールドラッシュで栄えた加州々都サクラメントへ
こちらの大学に留学するという明治大生と路線バスに乗って同市内へ、州議会目の前に投宿
荷解きもそこそこに郊外へ歩き、初めて新大陸からの夕陽を見る
カリフォルニア広場では、メキシコ独立記念日とかでお祭り騒ぎ
米国からの独立を米国内のヒスパニックが祝っている
翌日、西部劇にでも出てきそうな旧市街を散策、鉄道、舟運、撥橋で往時を偲ぶ
サンディアゴでは国境沿いの壁を遠望する
La Hoja海岸では太平洋に没する陽を眺める、地元民も散歩している
アメリカがこんなに平和で良いものか
翌朝は飛行機でダラス空港へ、1980年代のコンクリート打ちっぱなしの空港建築
レンタカーで渋滞に巻き込まれながら市内に向かい、アーリントン墓地で有名なアーリントンにて、ポトマック川を見下ろすホテルに投宿
対岸は米国の首都、地図を眺めてペンタゴンの近くであることを知る
未明、郊外で発砲事件があり、6名死傷とのニュースが、日本にいる彼女からもたらされる
大使館からも注意喚起のメールがあり、TVを点けてみるが、どっこい報道されていない
日常の一コマ故か
日が昇ってから橋を渡って散歩する、町並みは綺麗だ
ポトマック川から引き入れた運河と、それに沿って林立する工場群
今となってはオシャレオフィスにリノベーションされている
夜には現地の人に連れられてカニ料理を頬張る
高級レストランでもドギーバッグを用意してくれる
帰る道すがら、ベンチで寝ている人の枕元にそのドギーバッグを置いていく
今度はレンタカーでボルチモアを目指して北上する
途中、湾を見通す岬の公園へ立ち寄る
地元のおっちゃんが双眼鏡で湾に出入りする船舶を見やっている
俺は港湾労働者だったんだ、と私に語り掛ける
その昔、独立戦争時には英国艦隊の迎撃の為にここに大砲を築いたもんだ、と教えて呉れる
カーナビもなく、スマホのオフラインマップを頼りに市内の安宿を目指す
昨日までは出張扱いで良い宿に泊まれたが、今日からは個人旅行であるため、必然宿のランクは落ちる
宿に荷物を置いて、車も返却して街を歩く
気付いたら黒人街に迷い込んでいた
なるほど、黒人が街路に屯して、タバコを吹かし、酒壜を仰いでいる姿を見ると、思わず後ずさりしてしまう
慎重にカメラを向けてシャッターを切る
ここボルチモアはその昔、工業港として栄えていたと見て取れる
滝線都市の一つに数えられる
港にはレンガ造りのビール工場を今風に改装した書店、水族館、ショッピングモールが軒を連ねる景色の中に、テラス席の残飯を漁る関取のような黒人女性もいる
丘の上の旧市街の、白人店主が経営する半地下のアンティーク店を訪れると、店内で瘦身の黒人女性がアメコミフィギアを見ている
彼女が私にボロ市の場所を教えて呉れる
同じ建物の上には、ベトナム料理店があり、アジア人青年が働いている
肉続きの1週間の後に、アジアの味の薄い、そして優しい味付けが、沁みた
この街は、否この国はどこの国でも無いかもしれぬ
旧市街は欧風、工場外の陰には薬売り、今風のショッピングモール、すべてに既視感があるが、ここまで一纏めにされると、なんだか訳がわからなくなる
アメリカは無国籍
昼の鉄道でニューヨークに向かう
予約しないで駅に向かうと、窓口のおばちゃんに最後の一席だと言われて切符を渡される
3~4時間揺られただろうか、ニューヨークの摩天楼が望まれる
ハドソン川越えを期待したが、地下トンネルでマンハッタンへ
そのままサブウェイに乗り継いでウィリアムスベルク橋を渡って学生宿にチェックインする
荷物を置くが早いか、イースト川に向かって、都市農園を横目に坂を下る
川には船が行き交っているではないか
これはと思い、券売機で乗船券を購入して舟のデッキへ上がる
おお、これが所謂スカイスクラッパー、マンハッタンの街並みか
舟はブルックリン橋のたもとのDUMBOに着ける
橋の下ではPhotoshoopの販促のための写真展が開催されている
社会派のフォトグラファーもいるようで、その昔、米国内の主要都市では人種によって住み分けられていた様だ
ボルチモアの住区分地図もあり、昨日迷い込んだ黒人街と市場は、"Blacks"と網掛けされていた
会社の先輩おすすめのパストラミを食べて宿に戻る
宿はシナゴーグに近いようだ
地下鉄で川を渡り、小学校の時に地図帳で見た街路を思い出しながら島内を歩き廻る
はぁ、セントラルパークはなかなか広いな、
へぇ、これがトランプタワーであれがエンパイアステートビル、
ほぉ、この斜め筋との辻にタイムズスクエア、
それで、中華街とリトルイタリーに代表される移民街、
なるほど、此処が世界貿易センター跡地か、
2001年9月11日、全米、否全世界を震撼せしめ、21世紀の幕開け、テロとの闘いが堂々と掲げられるようになった同時多発テロの現場
現在は北棟、南棟共に、跡地には凹みが設けられ、その内壁に沿って水が流れる仕掛けがある
流れる先は漆黒で、その闇で何も見えぬ
入場制限があり、この日は記念館の入場を見送る
街角の適当なサンドイッチ屋で夕食とする
こんなんでも10弗も取る、物価は高いと感じる
翌日も島内を徒歩行、早めに911記念館へ足を運ぶ
旧ビルの基礎工を横から見ることができる
そう、この館はその全部が地下に設けられている
西洋人、亜細亜人が多く、中東系の観光客は少ないように見受けた
展示は、最初の方こそ、印象的な写真、簡単な解説のみでつまらなさを感じたが、後半は見応えがあった
有名な、消防士への朝のインタビュー時、そのカメラがパンして最初にビルに突っ込んだ映像が流れる
その後、毎分の消防と警察無線での会話が再生され、18年前にフラッシュバックさせる
焼けるビルから飛び降りる人影もカメラに収められていた
3000人超が死んだ、殺された
大学の時分、911は米国による自業自得であって、90年代の代償を支払わされているのだと思っていた
今もそれは変わらないが、突然、第二次大戦、朝鮮、ベトナム、アフガンでも本土での戦争を経験しなかった米国人が、ニューヨークを攻撃された有様は、カミカゼとも相まって、相当な衝撃を喰らったことだろう
展示の最後になってようやく、アルカイーダが出てきた
オサマビンラディンはアフガン戦争時にはCIAに訓練させられていた事実も記載されている
何か、ベルリンの壁跡地を訪問した時にも感じた、世界の歴史に記さざるを得ない現場にいることに、妙な昂奮を覚えた
丁度、国連総会を催しているらしく、それこそ世界中の首脳が此の地に集結している
ホテルには宿泊している首脳の国旗が掲げられ、交通規制も敷かれており、警官の数も多く目にする
バスを待っていても全く来る気配がない
隣のおばさんがUNのsomethingで、ダイヤが変更して今日はもうアップタウン行きバスは来ないわよ、と教えて呉れる
相も変わらずイラン外相には直前までVISAが発給されないなどやっている
日本の小泉環境相はというと、セクシー発言を切り取られて、又、喋っていることがポエム調であると日本のマスコミが騒ぎ立てる
グレタトゥーンベリの発言にはトランプが怒り気味に返信し、口喧嘩を繰り広げる
まったく2019年も下らない
此の地での最後の2泊は、1番街と東12番通りが交差するアパートで民泊する
屋上に上がり、既に寒くなり始めた新府の夜空の下で麦酒を仰ぐ
存外、星も見えるのだな
遠くの光るビル群も見納めである
宿主は以前はIT系企業に勤めていたが、今は市内で犬の散歩代行をしているらしい
曰く、人が集まるここでなら、仕事は自分で作ることができる
この部屋代は一月4000弗だとか
まったくニューヨークの犬飼は金持ちである
陽がとっぷり暮れてから、ビレッジバンガードでジャズでも聴く
JFK国際空港へ向かう鉄道から朝日を眺める
ここまで来ると田舎の様子だ
再び西海岸は羅府へ飛び、親戚家族と会う
トーランス地区という日系人も多く住む区画にあるこの家は、隣家との間に垣根もなく、芝が生え、目の前の幅の広い通りに車を停める、実に我々が知るアメリカンである
お母さんになんとかというメキシコ料理をこしらえてもらう
ここではワカモレのことをバカモレと呼んでいる
ロスは危険であるからあまり一人で出歩かない方が良いと忠告を受ける
驚くべきことに、地元民はこの都に地下鉄があることすらも知らないらしく、本当に移動は自動車が頼りである
昨晩の忠告を無視して、公共交通機関LRTに乗る
やはり自分の目で確かめたい、車内はそんなに危険な感じはしない
途中、軌道が工事中で代替バスとなっていたが、さすがはアメリカ、よくよく案内が出ている
そういえば、いつぞやベルリン地下鉄でも代替バスに乗り換えたものだ
古い石造りのビルヂングはかつての栄華を偲ばせるが、今となってはスプレーアートのキャンバスと化している
ゴミが散らかり見るからに治安が悪そうだ、
ナイフやら、何に使うのかガラス製の吸引器具を売っている店が立ち並ぶ
財布と携帯電話、旅券を収めたジーパンのポケットに手を突っ込みながら、日本人街に向かってみる
中心部から東に2kmほど離れたそこには、日本食料理屋や日用品店が立ち並ぶ
一区画は再整備された様子で、日本のアニメ関連グッズや茶、菓子、薬品類が揃う
日系人による案内センターにはおばあさんがつまらなさそうに店番をしている
おじさんが入ってくるなり、ミョウガを置いていく
変な奴に付きまとわれている米国人少年がセンターに逃げ込んでくる
ここは地元民の駆け込み寺としての機能も果たしているらしい
おばあさんは慣れた手つきで警察に電話をしている
私は観光客よろしく、いつこちらに来たのですか、とおばあさんに尋ねる
彼女は30年前にすぐ帰国するつもりで渡米したが、何だかんだで今までこの日本人街に住み着いてしまったと答えた
自分ではどうすることもできず、抗うこともできずに30年という月日は過ぎてしまうものであろうか
今すぐにでも日本に帰りたい、こんなところには住みたくなんかない、と言っている
この界隈には戦前から日系人が住みついているようで、当時の日系人会館が歴史博物館としてリニューアルオープンしている
近年改装されたのかICT機器を駆使して興味をそそる展示内容となっている
解説文は英文のみであることから、対象者も伺い知れよう
専ら日系人差別を扱っており、マンザナー強制収容所のそれだ
米国人として銃を持って対独東部戦線やフィリッピンで日本人と殺し合いをするか、山崎豊子の描く『二つの祖国』の世界である
地元の専門学生が、課題とかでこの博物館を訪れて、ノートに何やら書き込んだりスマホで写真を撮ったりしている
そのうち一人に尋ねると、日系人やその背景、収容所のことなどは知らぬ、とのことであった、そんなものであろう
1980年代末にレーガンが日系人差別に正式に謝罪したことをもって、展示は終了する
日系人を敵性外国人として隔離したのは理解できる、原爆を2つ投下したのも理解できる、
1940年代の世界に倫理感などなかったであろう
大日本帝国が同じように原爆開発に成功し、西海岸まで航空機を飛ばすことができていたら、躊躇なく投下していたであろう
戦争なんて言うのはそんなものだ
その中にあって、日系人差別をこんなにも追及している展示に違和感を覚えた
一つ一つの問題を切り分けて対処していくのが正しい方法なのか
名誉回復はそれにも増して重要なのだろう
さて、その後は地下鉄、路面電車を乗り継いでサンタモニカ海岸へ
生涯縁遠いと思われたビーチに来てしまった
南に向かって裸足になって右に夕日を浴びながら歩いてみる
監視台には星条旗が翻っている
最後の残光を見届けるため、砂浜に腰を下ろして、マッチを擦って『うるま』に火を点ける
プロペラ機が夕陽に向かって飛び立っていく、一体何処に行くのだろう
バスで国際空港近くのモーテルに帰る
近くのリカーショップで当地の麦酒と天狗印のビーフジャーキでも買い込む
此の国では中間所得者層が最下層に怯えて生活を送っている
あそこは危ない、鉄道は貧乏人が乗るものだと言う
犯罪も簡単で、命も安いのだろう
これが皆が口々に言う格差社会なのか
見た目が欧州の人が多く住んでいるが、決してヨーロッパではない
今でも混沌とした新大陸のままで、なかなか住みにくい所である
マニラの方がよっぽど安心して歩くことができる
Ceylon
自分の荷物がターンテーブルから出てこない
失望感が募り、いよいよやられたか、と諦める
マニラに置いてきたらしい
カタコトの日本語を話す恰幅の良いおばさん職員が対応してくれる
明日にはホテルに届けるから、安心して、とのこと
会議で使うシャツがないので、コロンボの市場に買い出しに出かける
様々な大きさ、種類のバナナが露店で売られており、通りすがりの紳士が買って、食べて、皮を捨てて、去っていく
私も真似をしてみる
大きめのバナナは非常にねっとりとしており、そして甘く、カロリーが高そうな味がする
これだけ食ってれば生きていけるのでは、と思わせるほどのエネルギーを感じる
夜半に夕飯でも食べようと外出しようとすると、ホテル前の三輪タクシーのおじさんが話しかけてくる
まぁいいか、歩くと暑いし、乗ってくか、市街地まで、と伝える
すると風俗マッサージ店に連れていかれる
運転手と店の女将が繋がっているらしくー紹介料でも取れるのだろうー、数々の日本人がこの手に落ちてるのだろうなと想像する
思う壺はつまらないので、市街地に送るように依頼する
相手もそのまま返すわけにはいくまいと粘る
いちいち交渉が面倒である
適当な屋台でシャバいカレーを頼むと大量のコメと共に提供される
野菜の漬物なんかと一緒に食べる 全体的に薄味な模様
その辺の屋台で龍眼でも買って帰る
別日にはアンティークショップまで、三輪タクシーを依頼した
途中で頼んでもいないがお土産物屋に停車する
ここも、運転手とお店の仲が良いようである
言われた通り、店内をぐるっとしてから、なんにも買わずに店を出る
Galle通りをずっと南下して、少し脇道に入った住宅街にある、高級家具が立ち並ぶガレージに到着する どうも高級すぎて手が出ない
帰りは歩いて帰る
ラッカティブ海を望む海岸には、夕陽を楽しむために、家族連れや、カップルが集まっている
そのため、揚げバナナや噛み煙草を売る露天商が群がっている
ビンロウやらキンマ、石灰が原料の噛み煙草を試してみる
口内がスースーして、苦みも広がったが、快感は感じえなかった
道端にペッと吐き捨てる
その海岸からは中国が営為建設中の港湾施設が良く見える
ハンバントタ港で懲りたかと思えば、そうでもないようだ
以前は海外での交渉も楽しんでいたが、今回は空港やら屋台やらタクシーから、商売根性を出されて、なんだか少し疲れてしまった
Far East
羽田から飛行機で二時間、夕方にウラジオストックに降り立つ
この時間になると、市街地までの公共交通機関はない
皆、迎えの車にめいめい乗り込んでいく
10分もすると到着ロビーは静かになる
我々一行も手配済みのバンに乗り込んで、市内の安宿に向かう
草原を抜ける一直線の道を、ボロいバンは爆速で南下する
右手にはまさに陽が暮れんとしていた
フルシチョフカが立ち並ぶ市街地に着くころには暗くなっており、雪面がハロゲン灯を反射し、辺りは橙色に包まれている
安宿で初日の夜を騒いで過ごしていると、隣の部屋からゴンゴンと叩かれる音でビビらされる
軍事博物館で高射砲をくるくる回転させて遊んだり、公園に展示されている潜水艦に入ってみたり、北朝鮮レストランで冷麺でも啜ってみたり、駅前の屋台でピロシキやら食べてみたり、一通り遊ぶ
数日の滞在の後、夜汽車に揺られてハバロフスクまで
黒竜江、アムール川は凍っているようだ
理由も無いが対岸まで歩いて行って、遥か中国に沈む夕日を、枯草越しに浴びる
近郊旅行の予約をしようと、ソ連時代には外国人観光客をまとめて泊めておいたのであろうインツーリストホテルに足を運ぶが、散々待たされた挙句、担当者不在なので対応不可とのこと
四角い外観、薄暗く、やけに広く、大きなソファや調度品の並ぶロビーとレセプションも、どこか見覚えがある
夜、買い込んだウォッカを宿の窓の外に置いておくと、よくよく冷える
そいつらをクイっと仰いで、オレンジジュースやモルスで後味を整える
割り材が底を突き、近くのスーパーまでふらふらと買い出しに出かける
どうもべろんべろんな様子らしく、すれ違う人に笑われる
翌日、凍った魚がそのまま陳列しているような市場を練り歩く
大陸の西から東端まで、よくも同じような風景を作り上げたものだと感心する
5番系統の市バスが空港まで連れて行ってくれる
古い国内線ターミナルで、モスクワ経由ペルム行きのアロフロートに乗り込む
今度は船で上陸したいものだ