Stateless

初の渡米

ロサンゼルス国際空港で乗り継いで、ゴールドラッシュで栄えた加州々都サクラメントへ

羅府の郊外

こちらの大学に留学するという明治大生と路線バスに乗って同市内へ、州議会目の前に投宿

荷解きもそこそこに郊外へ歩き、初めて新大陸からの夕陽を見る

カリフォルニア広場では、メキシコ独立記念日とかでお祭り騒ぎ

米国からの独立を米国内のヒスパニックが祝っている

翌日、西部劇にでも出てきそうな旧市街を散策、鉄道、舟運、撥橋で往時を偲ぶ

 

サンディアゴでは国境沿いの壁を遠望する

La Hoja海岸では太平洋に没する陽を眺める、地元民も散歩している

アメリカがこんなに平和で良いものか

 

翌朝は飛行機でダラス空港へ、1980年代のコンクリート打ちっぱなしの空港建築

レンタカーで渋滞に巻き込まれながら市内に向かい、アーリントン墓地で有名なアーリントンにて、ポトマック川を見下ろすホテルに投宿

対岸は米国の首都、地図を眺めてペンタゴンの近くであることを知る

未明、郊外で発砲事件があり、6名死傷とのニュースが、日本にいる彼女からもたらされる

大使館からも注意喚起のメールがあり、TVを点けてみるが、どっこい報道されていない

日常の一コマ故か

日が昇ってから橋を渡って散歩する、町並みは綺麗だ

ポトマック川から引き入れた運河と、それに沿って林立する工場群

今となってはオシャレオフィスにリノベーションされている

夜には現地の人に連れられてカニ料理を頬張る

高級レストランでもドギーバッグを用意してくれる

帰る道すがら、ベンチで寝ている人の枕元にそのドギーバッグを置いていく

ポトマック川の台船

今度はレンタカーでボルチモアを目指して北上する

途中、湾を見通す岬の公園へ立ち寄る

地元のおっちゃんが双眼鏡で湾に出入りする船舶を見やっている

俺は港湾労働者だったんだ、と私に語り掛ける

その昔、独立戦争時には英国艦隊の迎撃の為にここに大砲を築いたもんだ、と教えて呉れる

カーナビもなく、スマホのオフラインマップを頼りに市内の安宿を目指す

昨日までは出張扱いで良い宿に泊まれたが、今日からは個人旅行であるため、必然宿のランクは落ちる

宿に荷物を置いて、車も返却して街を歩く

気付いたら黒人街に迷い込んでいた

なるほど、黒人が街路に屯して、タバコを吹かし、酒壜を仰いでいる姿を見ると、思わず後ずさりしてしまう

慎重にカメラを向けてシャッターを切る

ここボルチモアはその昔、工業港として栄えていたと見て取れる

滝線都市の一つに数えられる

港にはレンガ造りのビール工場を今風に改装した書店、水族館、ショッピングモールが軒を連ねる景色の中に、テラス席の残飯を漁る関取のような黒人女性もいる

丘の上の旧市街の、白人店主が経営する半地下のアンティーク店を訪れると、店内で瘦身の黒人女性がアメコミフィギアを見ている

彼女が私にボロ市の場所を教えて呉れる

同じ建物の上には、ベトナム料理店があり、アジア人青年が働いている

肉続きの1週間の後に、アジアの味の薄い、そして優しい味付けが、沁みた

ボルチモアの街角

この街は、否この国はどこの国でも無いかもしれぬ

旧市街は欧風、工場外の陰には薬売り、今風のショッピングモール、すべてに既視感があるが、ここまで一纏めにされると、なんだか訳がわからなくなる

アメリカは無国籍

 

昼の鉄道でニューヨークに向かう

予約しないで駅に向かうと、窓口のおばちゃんに最後の一席だと言われて切符を渡される

3~4時間揺られただろうか、ニューヨークの摩天楼が望まれる

ハドソン川越えを期待したが、地下トンネルでマンハッタンへ

そのままサブウェイに乗り継いでウィリアムスベルク橋を渡って学生宿にチェックインする

荷物を置くが早いか、イースト川に向かって、都市農園を横目に坂を下る

川には船が行き交っているではないか

これはと思い、券売機で乗船券を購入して舟のデッキへ上がる

おお、これが所謂スカイスクラッパー、マンハッタンの街並みか

船着き場より臨む

舟はブルックリン橋のたもとのDUMBOに着ける

橋の下ではPhotoshoopの販促のための写真展が開催されている

社会派のフォトグラファーもいるようで、その昔、米国内の主要都市では人種によって住み分けられていた様だ

ボルチモアの住区分地図もあり、昨日迷い込んだ黒人街と市場は、"Blacks"と網掛けされていた

会社の先輩おすすめのパストラミを食べて宿に戻る

宿はシナゴーグに近いようだ

 

地下鉄で川を渡り、小学校の時に地図帳で見た街路を思い出しながら島内を歩き廻る

はぁ、セントラルパークはなかなか広いな、

へぇ、これがトランプタワーであれがエンパイアステートビル、

ほぉ、この斜め筋との辻にタイムズスクエア、

それで、中華街とリトルイタリーに代表される移民街、

なるほど、此処が世界貿易センター跡地か、

 

2001年9月11日、全米、否全世界を震撼せしめ、21世紀の幕開け、テロとの闘いが堂々と掲げられるようになった同時多発テロの現場

現在は北棟、南棟共に、跡地には凹みが設けられ、その内壁に沿って水が流れる仕掛けがある

流れる先は漆黒で、その闇で何も見えぬ

入場制限があり、この日は記念館の入場を見送る

街角の適当なサンドイッチ屋で夕食とする

こんなんでも10弗も取る、物価は高いと感じる

 

翌日も島内を徒歩行、早めに911記念館へ足を運ぶ

旧ビルの基礎工を横から見ることができる

そう、この館はその全部が地下に設けられている

西洋人、亜細亜人が多く、中東系の観光客は少ないように見受けた

展示は、最初の方こそ、印象的な写真、簡単な解説のみでつまらなさを感じたが、後半は見応えがあった

有名な、消防士への朝のインタビュー時、そのカメラがパンして最初にビルに突っ込んだ映像が流れる

その後、毎分の消防と警察無線での会話が再生され、18年前にフラッシュバックさせる

焼けるビルから飛び降りる人影もカメラに収められていた

3000人超が死んだ、殺された

世界貿易センタービル跡地

大学の時分、911は米国による自業自得であって、90年代の代償を支払わされているのだと思っていた

今もそれは変わらないが、突然、第二次大戦、朝鮮、ベトナム、アフガンでも本土での戦争を経験しなかった米国人が、ニューヨークを攻撃された有様は、カミカゼとも相まって、相当な衝撃を喰らったことだろう

展示の最後になってようやく、アルカイーダが出てきた

オサマビンラディンはアフガン戦争時にはCIAに訓練させられていた事実も記載されている

何か、ベルリンの壁跡地を訪問した時にも感じた、世界の歴史に記さざるを得ない現場にいることに、妙な昂奮を覚えた

 

丁度、国連総会を催しているらしく、それこそ世界中の首脳が此の地に集結している

ホテルには宿泊している首脳の国旗が掲げられ、交通規制も敷かれており、警官の数も多く目にする

バスを待っていても全く来る気配がない

隣のおばさんがUNのsomethingで、ダイヤが変更して今日はもうアップタウン行きバスは来ないわよ、と教えて呉れる

 

相も変わらずイラン外相には直前までVISAが発給されないなどやっている

日本の小泉環境相はというと、セクシー発言を切り取られて、又、喋っていることがポエム調であると日本のマスコミが騒ぎ立てる

グレタトゥーンベリの発言にはトランプが怒り気味に返信し、口喧嘩を繰り広げる

まったく2019年も下らない

 

此の地での最後の2泊は、1番街と東12番通りが交差するアパートで民泊する

屋上に上がり、既に寒くなり始めた新府の夜空の下で麦酒を仰ぐ

存外、星も見えるのだな

遠くの光るビル群も見納めである

宿主は以前はIT系企業に勤めていたが、今は市内で犬の散歩代行をしているらしい

曰く、人が集まるここでなら、仕事は自分で作ることができる

この部屋代は一月4000弗だとか

まったくニューヨークの犬飼は金持ちである

陽がとっぷり暮れてから、ビレッジバンガードでジャズでも聴く

民泊先の屋上からの眺めは一見すると東京のそれと見紛うくらいに雑居ビルが犇めいている

JFK国際空港へ向かう鉄道から朝日を眺める

ここまで来ると田舎の様子だ

再び西海岸は羅府へ飛び、親戚家族と会う

トーランス地区という日系人も多く住む区画にあるこの家は、隣家との間に垣根もなく、芝が生え、目の前の幅の広い通りに車を停める、実に我々が知るアメリカンである

お母さんになんとかというメキシコ料理をこしらえてもらう

ここではワカモレのことをバカモレと呼んでいる

ロスは危険であるからあまり一人で出歩かない方が良いと忠告を受ける

驚くべきことに、地元民はこの都に地下鉄があることすらも知らないらしく、本当に移動は自動車が頼りである

 

昨晩の忠告を無視して、公共交通機関LRTに乗る

やはり自分の目で確かめたい、車内はそんなに危険な感じはしない

途中、軌道が工事中で代替バスとなっていたが、さすがはアメリカ、よくよく案内が出ている

そういえば、いつぞやベルリン地下鉄でも代替バスに乗り換えたものだ

古い石造りのビルヂングはかつての栄華を偲ばせるが、今となってはスプレーアートのキャンバスと化している

ゴミが散らかり見るからに治安が悪そうだ、

ナイフやら、何に使うのかガラス製の吸引器具を売っている店が立ち並ぶ

財布と携帯電話、旅券を収めたジーパンのポケットに手を突っ込みながら、日本人街に向かってみる

中心部から東に2kmほど離れたそこには、日本食料理屋や日用品店が立ち並ぶ

一区画は再整備された様子で、日本のアニメ関連グッズや茶、菓子、薬品類が揃う

日系人による案内センターにはおばあさんがつまらなさそうに店番をしている

おじさんが入ってくるなり、ミョウガを置いていく

変な奴に付きまとわれている米国人少年がセンターに逃げ込んでくる

ここは地元民の駆け込み寺としての機能も果たしているらしい

おばあさんは慣れた手つきで警察に電話をしている

 

私は観光客よろしく、いつこちらに来たのですか、とおばあさんに尋ねる

彼女は30年前にすぐ帰国するつもりで渡米したが、何だかんだで今までこの日本人街に住み着いてしまったと答えた

自分ではどうすることもできず、抗うこともできずに30年という月日は過ぎてしまうものであろうか

今すぐにでも日本に帰りたい、こんなところには住みたくなんかない、と言っている

 

この界隈には戦前から日系人が住みついているようで、当時の日系人会館が歴史博物館としてリニューアルオープンしている

近年改装されたのかICT機器を駆使して興味をそそる展示内容となっている

解説文は英文のみであることから、対象者も伺い知れよう

専ら日系人差別を扱っており、マンザナー強制収容所のそれだ

米国人として銃を持って対独東部戦線やフィリッピンで日本人と殺し合いをするか、山崎豊子の描く『二つの祖国』の世界である

地元の専門学生が、課題とかでこの博物館を訪れて、ノートに何やら書き込んだりスマホで写真を撮ったりしている

そのうち一人に尋ねると、日系人やその背景、収容所のことなどは知らぬ、とのことであった、そんなものであろう

1980年代末にレーガンが日系人差別に正式に謝罪したことをもって、展示は終了する

 

日系人を敵性外国人として隔離したのは理解できる、原爆を2つ投下したのも理解できる、

1940年代の世界に倫理感などなかったであろう

大日本帝国が同じように原爆開発に成功し、西海岸まで航空機を飛ばすことができていたら、躊躇なく投下していたであろう

戦争なんて言うのはそんなものだ

その中にあって、日系人差別をこんなにも追及している展示に違和感を覚えた

一つ一つの問題を切り分けて対処していくのが正しい方法なのか

名誉回復はそれにも増して重要なのだろう

 

さて、その後は地下鉄、路面電車を乗り継いでサンタモニカ海岸へ

生涯縁遠いと思われたビーチに来てしまった

南に向かって裸足になって右に夕日を浴びながら歩いてみる

監視台には星条旗が翻っている

夏場は海水浴客の監視のために使われるのであろう物見台

最後の残光を見届けるため、砂浜に腰を下ろして、マッチを擦って『うるま』に火を点ける

プロペラ機が夕陽に向かって飛び立っていく、一体何処に行くのだろう

バスで国際空港近くのモーテルに帰る

近くのリカーショップで当地の麦酒と天狗印のビーフジャーキでも買い込む

 

此の国では中間所得者層が最下層に怯えて生活を送っている

あそこは危ない、鉄道は貧乏人が乗るものだと言う

犯罪も簡単で、命も安いのだろう

これが皆が口々に言う格差社会なのか

見た目が欧州の人が多く住んでいるが、決してヨーロッパではない

今でも混沌とした新大陸のままで、なかなか住みにくい所である

マニラの方がよっぽど安心して歩くことができる